苑歌:そのうた

苑歌とは

教主が信者のために教えを解りやすく説くために句にしたもの。

独自用語

常楽、楽我、我常とそれぞれ31ずつあり、信者は1月からカレンダー形式で順番にめくり、取り組みとする。
仏教が前面に出されているが、ネズミ講型新興宗教の最上の取り組みである勧誘(お救け)が行き着くところと考えると趣旨がつかみやすい。

特に、楽我の5番では、「月日ごと慈悲をこうむる人まして 真如みひかり世にぞ知らるる」(涅槃経を信心の基盤においている宗教団体は皆無といってもよい。護法の霊言に「科学が進歩して、やがて月の裏面まで判る時代に、この教えは(最後のみおしえ)は栄える…」と。)と注釈されているが、1960年代のアポロ計画の頃のことである。
インターネットの無い時代には口コミで人の生活に入り込み、欺瞞に気づいた人は堕ちた人として排除されることで目立たずに栄えていた。
現在は、その実害を感じた人がネット検索によって手口を知ってしまうし、教えに取ってそれは想定されていなかったことである。

以下に参考資料として常楽楽我我常の苑歌および、真如苑による解説を掲出します

常楽の苑歌 1~31

1.み佛のみめぐみこそは世の果の はてのはてまであまねかりけり
<解説>
み仏の慈悲は摂取不捨である。このあまねき仏の慈悲に結ぶことがお導きであり、この行いこそ尊い慈悲行である。
2.教団の大いなるより一人をも 多く救わることぞうれしき
<解説>
これは真道院様に入院中のお言葉で、今は教徒に残された尊い遺言となった。
3.人の世の哀れになくも自からの あわれを知らぬ人の多きに
<解説>
自惚れを去り、自らの非というものを覚って、人さまから「あわれな人よ…」と笑われることのない人間になっていくことである。
4.家々の佛檀こそはみ佛の 在(ま)す方向(かた)ぞ知るも尊き
<解説>
「家々の仏壇は親苑に通ずる電話のようなものですね」と言われた教徒があった。尤もなことである。
5.日日にすべてのことに対応し 菩提の糧となすは尊し
<解説>
“なにみてもみ法示さぬものはなし 己が心に菩提ありなば”の苑歌と思いあわせ、日々に精進することが肝心である。
6.まこととは目には見えねどみ佛の 世界に通じる救けとぞなる
<解説>
まこと-とは、身・口・意のいつわりない清い真実の行いで、その行いの根底にあるものはみ仏に帰命しまつる心魂(たましい)である。
7.信心は観念(おもう)のみでは迷いなり 行い示し会得するもの
<解説>
信心には、観念信心(拝むだけ)称名信心(題目や念仏などを唱えるだけ)実践信心(教えの如く歩む本当の信心)の三つがある。
8.世の中の宝の外の宝なる 教えの宝得るぞ尊し
<解説>
世の中の宝は名誉・地位・金銀財宝等であるが、それらは失うこともある。真実の宝は教えであり、身に具わった信心の徳は子々孫々までを豊かにうるおすであろう。
9.信心は耐えかぬことも耐えさせる 妙薬なりと知れよ世の人
<解説>
あの時怒らずにこらえていてよかった-等ということはよくある。若し、思惟(いのり)なく、怒りのままに行動したら大変な結果になっていただろう、やはり、信心のおかげで救けられたのである。
10.大海のひろき教えをほどこして 他のためになす喜びぞ佳し
<解説>
大海の教え-涅槃経は、一切の煩悩及び諸の誘惑を斥けて、世間法的な束縛を脱し、仕あわせになるために説かれたものである。故にこの真実を他のために説くことは喜びである。
11.霊言は出離を示す啓示ゆえ こころに心してぞ聞くべし
<解説>
出離とは、分かりやすく言えば運命を好転に導くための啓示(おしらせ)である。故に真剣に霊言を聞いて、それと取り組むことが大切である。
12.我が為になす信心はそなわらず 他がために為しそなわると知れ
<解説>
本能的なものをみたそうとする信心は本当の信心ではない。霊言にも「欲しい欲しいの餓鬼の心を超越して餓鬼を救うことができる」と示されている。自己中心を超越してお救けもできるのである。
13.今日という日の吉凶を論ずより 今日の行い見かえるぞよし
<解説>
み教えに一如していったなら日々が吉日でなくてはならない。日が悪いから災いにあうのではなく、自らの心・行いが至らないためである。
14.執われを思い切ってぞ因縁の 重きを知ると知れ世の人
<解説>
執着の存在を否定することによって涅槃は証せられる-と、涅槃経純陀品に教えられている。
15.大海の如きみ法にあいまつり 常楽我浄と知るも尊し
<解説>
すべての河が大海に帰入するごとく、すべての教えは大涅槃経に帰す-と、このような尊い教えに結縁されたことは、本当に尊いことである。
16.人の世の哀れになくも自らの あわれを知らぬ人の多きに
<解説>
教えや、教えの師を自分の見解で批判していたら、法友はその悪(非律不証)を見ぬいて、みんな離れていってしまう。
17.世の中の憂きこと多きその中に 利他のまことに生きよ苑人
<解説>
信心の道というものは、喜んで生きる。-と言うことである。喜べないことは自分自身に執われているからで、それを捨てれば本当の利他に生きられよう。
18.訶責とは強くなすとも慈(なさ)けこめ 悩む立場に立ちて行なえ
<解説>
駆遣訶責とは-人間本位の信心から、み仏本位の信心に立てかえるために強く激励する言葉を言う。教える側に私情があってはならない。
19.権威をば振るってなせる教化には 形成りても実(じつ)は少なし
<解説>
自分の地位や権力で入信させても、それは形だけであるから、その信心が喜びの実を結ぶまで手を引き教化する事が大切である。
20.御利益はまことの歩みの福利なり 歩まず乞うは邪と知れ
<解説>
教えの如く歩んで行った時には、必ず運命が立て替えられて仕合わせになる。歩まずに御利益だけを望んでも得られるものではない。
21.善友に近よることはよけれども 愚人の交際絶たばなおよし
<解説>
涅槃経に、善友とは仏-と示されているが一面には一如の教徒ともいえよう。この意味に於いて、信仰を阻害するものは悪友である。
22.今ぞいま尊き性(仏性)を磨かんは 今を機会と知るも尊し
<解説>
機会は再び来ない「今」今のひとときを活かし機会とする。
23.常住のみ佛さまを慕いつつ 仕うる人ぞたのものしきかな
<解説>
常住のみ仏を最上のものとして心のよりどころとし、喜んで仕えている人の姿を見ると本当にたのもしく、また楽しげである。
24.お済度は父母を救ける心にて 説けよ苑人これぞ道なり
<解説>
お救けに行った時、相手を尊重する心は、父母に対して、話をするようなこころで、話を取つがせて頂くことである。
25.歓喜積みお救けこそは積み磨き 奉仕は磨く徳と知れ人
<解説>
歓喜は積む徳、奉仕は磨く徳、お救けは積み、磨く徳であり、この三つの聖行に徹していって、初めて因縁消除の真理を理解できよう。
26.他のために言葉やわらげ教ゆるは 菩提(めばえ)育てのまことなりけり
<解説>
聴法因縁の三段階と言うことが教えられている。初信者には、やさしい言葉、態度で接し、相手の菩提の芽を育ててあげよう。
27.道に外れあゆむが故に事故起し 後の後悔先には立たず
<解説>
教えの如く行わない信心は、道に外れてあゆむと同じ事である。軌道をはずれれば事故もおこるであろう。
28.怠らず精進(はげ)み祈らん千代かけて 歓喜世界の出現(いず)る時まで
<解説>
信心の道に終わりはない。生涯かけての精進である。そして終生精進できることが喜びである。
29.大乗の道も炭火と同じなれ 三つ四つ五つ合わせてぞ燃ゆ
<解説>
信心の心も炭火と同じように、一つだけだと消えやすい。志を同じくする者が、四人五人と集まると、信仰も心も燃え求めることの喜びもわいてくる。
30.常日頃まこと蓋して精進(はげ)みなば それ、それ自体が真理(みち)に叶わむ
<解説>
怠るは死の道、励むは生への道である-という聖句があるが、高貴徳王菩薩品にも示されるように、楽(ねごう)て精進してゆくことが真理(みち)に叶ったことである。
31.言うがごと行うがごとく言示せ(こと)示せ 茲(ここ)に一如の救いあるなり
<解説>
不言実行という言葉があるが、此処では有言実行を説いている。

楽我の苑歌 1~31

1.身は低く常に人にと和合して 高く菩提を求めあゆまむ
<解説>
実るほど頭をたるる稲穂かな-。だが教えはどこまでも高く求めていこう、仏の御内証を目ざして。
2.日日に踏まれて渡す橋のごと 菩提の橋となるぞ尊き
<解説>
お導きにゆくと、世間からいろいろな悪口を言われる。それがふまれてもなお相手を仕合わせの岸へと渡す橋となることである。
3.相手をば鏡となせのことのりも 涅槃に示す教えなりけり
<解説>
「相手は鏡」と言うことばがあるが、涅槃の中にも=仇は相手にあるのではなく我身にあるのだ=と教えている。
4.み佛にまかせまつりて常ぞつね 送る日日浄土なりけり
<解説>
自分のはからのをはなれた時、日々が本当に安心して暮してゆけるようになる。
5.月日ごと慈悲をこうむる人まして 真如みひかり世にぞ知らるる
<解説>
涅槃経を信心の基盤においている宗教団体は皆無といってもよい。護法の霊言に「科学が進歩して、やがて月の裏面まで判る時代に、この教えは(最後のみおしえ)は栄える…」と。
6.過ぎし日の執われ捨てて希望ある 未来求めて法にいそしめ
<解説>
過去に執われていたら、それは退歩である。申訳ない…という言葉を出す時には、それ以上の精進に振い立つことだ。
7.物心は一如のものと知りながら こころ忘れる人もあるなり
<解説>
物心一如とは、名実共に伴うもので、真諦め(まことのみち)である。物のみを追い求め、一如のこころ(み仏と共に生きる心)がないから、心忘れた-と言うのである。
8.我をたてず相手の身にぞ先ずなりて 笑みを忘れず説けよ苑人
<解説>
救いの真実を相手にわかって貰おうとするには、その人の心に自分の心を置きかえて、救いの道を共にあゆむ(あゆませる)事が肝要である。
9.他を救う力で我身救わんと 示す最後の教え尊し
<解説>
他を救うその功徳によって、自からが救われることは、全く涅槃聖典に示される真理(まこと)である。
10.了義にて不了義経に依らずとは 涅槃了義の真理(みち)と知るべし
<解説>
如来の真実なる智慧を如実に顕露したのが了義経である。涅槃経は聖典中の聖典とも言うべきものであるから、本経を諒解(りょうかい)することを仏徒としての道としなくてはならない。
11.書を持つも読まず極めず只きして 悟り得ようとするは畧分(りゃくぶん)
<解説>
教書を持って安心している-、それもよいがやはり、他に教えを伝えるために、しっかり読んで自分のものとしていかなくてはならない。
12.他が為になすは即ち世の為と つくすまことが真の信心
<解説>
大乗のためになしてゆくのが、この教えの本当の信心で、初信のうちは我が為に成しても、やがて他の為になしてゆく本当の大乗の境を得てゆくことが大切である。
13.み法うけさらさら流る水のごと 真理(みち)にたがわぬ人ぞ楽もし
<解説>
してあげた-、助けてやった-、等という考え方、思い方は仏教徒として不純である。大乗の真如教徒たるべきはそうした不純な心は捨てるべきである。
14.浮世とはよろこび憂いの世としるも み法に生きば其処が浄土ぞ
<解説>
この世を苦のシャバという、しかし、正しいみ仏の教えにふれて、如来法を知ったとき、此処が、このままお浄土であることがわかる。
15.光なる光の外のみひかりは 最後の法の光なりけり
<解説>
太陽の光こそ最たるものであるが、教えの光もその如く、仏最後の教えのひかりこそ、この世における最勝の救いのみ光である。
16.み佛の恵み思わば日に三度 合掌してぞ食(じき)に謝すべし
<解説>
感謝はさとりをうるはじめ-と言う。考えてみれば、食事を頂けるということ自体が、本当に有難いことである。
17.まことなるみ法の救い毛孔より 入ると説かるる涅槃神力
<解説>
「善男子よ日月光明は諸の光明の中で最も勝れている。大般涅槃の光明も亦かくの如きもので、諸の大乗経の中に於いて最も殊勝なものである。それは大涅槃の光よく衆生(ひとびと)の毛孔から入り込むからである。」(大般涅槃経菩薩品より)
18.物事は思うが如くならねども 行い重ねて成ると知るべし
<解説>
ままならないのが、人の世である。何事も誠実をつくして成しとげてゆく、そこに目的成就の栄冠はある。
19.道の辺に踏みにじらるる野草にも 耐えて伸びゆく性ぞあるなれ
<解説>
“この泥があればこそ咲け蓮の花”大乗利他の行いには非難やざん謗がつきものである。何故ならば、それが正法であるから-恐れずにすすもう。
20.何みてもみ法示さぬものはなし おのが心に菩提ありなば
<解説>
接心によって磨かれた心には、未だ見ざるものを見、聞かざるものを聞くことができる。それは自分自身に菩提(しんじん)の種をもっているからである。
21.み教えにやさしき言葉欲しなば 我身かわいい二乗とぞ知れ
<解説>
初信者であればやさしい言葉も必要だ-、入信して相当な年月を経ていても菩提(求める)心が成長せず、いつも初信者の如き心であってはならない-と言うことである。
22.外教より涅槃了義のみ教えに 導く人を教師とぞいう
<解説>
あらゆる外教も涅槃海に帰一する。又此の意味に於いても、諸教を摂受して始めて大海のみ教え-とも言えよう。
23.今日蒔きて明日の稔りはなきと知れ 学び修めるわざもそのごと
<解説>
今日蒔いて、明日の稔りはない。少しばかり教えにふれて、全部わかった-と思うことは大変な間違いである。
24.他がために尽せしことは忘るとも 受けし御恩は忘るべからず
<解説>
人のためにしたことは、いつまでもよく覚えていて、自分にして頂いた御恩は忘れてしまう、そんな事では仏教徒とはいわれない。
25.訶責とは宝の山を指し示す 指と知るべし世々の人々
<解説>
訶責してくださる人は、めったにいないものである。それなのに訶責されると、その人が嫌になる。それはいつまで経っても真実の宝を得ることは出来ない。
26.布施なすも報い求めぬまことこそ 悪因断ちの道と知るべし
<解説>
これだけ歓喜したから御利益があっても当然だ…と思ったら、それは徳が徳にならない。結果を求めない布施、そのまごころが霊界に通じ、悪因縁もたち切れていくのである。
27.苑(この)道は佛の始めし道なれば 百千代かけて変わらざる道
<解説>
真如苑の教えは釈尊が創始された道であり、この道をあゆめば、何人も幸福な世界にゆけるのである。何故ならば、それは真理であるから。
28.執着の存在捨てて暮らす時 ものみな尊し楽我なりけり
<解説>
執着は貪りである。貪りを鎮めたら瞋りも痴も鎮まって、本当の楽しみを得ることが出来る。
29.最後なる教えにふれて謝すなれば 摩尼の宝珠を掘り当つと知れ
<解説>
「水の濁りの中に宝珠を置けば水即ち清浄となる」と涅槃経に示されている。この深意をしるとき、まことに有難いことがわかる。
30.常に世は移り変れどみ佛の み法は永遠に変らざるなり
<解説>
“春は花咲き秋には紅葉、常に天地は変らざる経をよむ”と、人の世は移り変わってもみ仏の慈悲にはみじんの変りはない。
31.夢みせて出離の道を教ゆるも 佛最後にぞ教ゆ真理(みち)なり
<解説>
夢によって教化されることは涅槃経の中に明らかにされている。その流れを汲む真如教徒も夢をリブライとして取りくむことができることはしあわせである。

我浄の苑歌 1~31

1.我がうちに一如の喜び見出しなば 日日の仕事も聖なりと知る
<解説>
一如と言うことは、み仏の大慈しみの中に生かされることであり、それを知れば日々の業務もみ仏本位に生きる聖業なり-と、覚ることが出来る。
2.教法を学ぶにいとまなしという 人こそ暇に学ばざるなり
<解説>
とても忙しくて学べない-と言う人があるが、日常のその忙しい中から神仏に捧げまつる、まことを発見しようと努力することが大切である。
3.無我という道も正しきことなれど 無我超え悟る妙有尊し
<解説>
無我だけでは悪因縁は消除できない。大般涅槃のみ教えに言われるよう教えの如く行って、こうした無我を超えるところから、現象に生かされる妙有の喜びを得ることが出来る。
4.布施なして喜びなきも布施なるが 喜びあらば波羅蜜としれ
<解説>
歓喜は一つの布施であるが、若しそこに行わせて頂いた喜びが感じられるならば、それは行うことによって、一つの彼岸(さとり)に達したことになる。
5.歓楽は悪華と知れよ世々の人 心も身をも亡すと知れ
<解説>
歓楽は肉体だけのよろこび、目先だけの楽しみで飽くことを知らない。歓楽は悪魔の投げた餌食と思わねばならない。
6.執わるる心にはからいありと知れ 執われ捨てばはからいぞなし
<解説>
執われを持っているから真如の正法を聞いても、はからい心が起こる。人間本位の情的なつながり、これを断つ時、はからいはあべこべに感謝と変ってくる。
7.世の中の苦とよろこびの間より 求め得るのがまこと菩提ぞ
<解説>
よろこびに浮かされ、苦しみに執われていたのでは、本当の因縁消除の道を見出すことはできない。苦の中から、喜びの中から中道の真理を見出すのが、本当の信心である。
8.我れと共に常にましますみ佛を 忘れずはげめ世々の人々
<解説>
無形のみほとけを有形に信ずるところに、本当の信心があるのではないだろうか、此れは無相接心に生きる苑人の在り方である。
9.他が為と修むる教え身につけど 我が為なれば詰まるとぞ知れ
<解説>
他に語り伝えるため…に教えを聴聞していった時には、よく身につくものである。
10.世的な外に求むる心こそ 菩提心とぞ悟れ世の人
<解説>
此の-世的-は、本能的の謂いである。人には財的なもの、名誉や地位等こうしたものの外に、聖なるものを求める純真なものがある。これが即ち菩提心である。
11.自からの力の限りつくしてぞ なすがまことの信というなり
<解説>
力を尽くしたことのない人には信心は解らない。力の限りを尽くして神仏に委ねる-。
12.他が為に我が身ささぐる行いは 人の身ながら菩薩なりけり
<解説>
此処でも教法を中心にして、他のために我が身を捧げる行いを示している。人間情を中心にして身を捧げることを云うのではない。菩薩に殉教の死はあるが、情死はない。
13.よきことも悪しきことをも目にみせて 身の行いにあるを示さむ
<解説>
良い結果、悪しき結果の日々の出来事はすべて自からの行いの果が示されたものと思惟してみるがよい。まことに悪因悪果、善因善果である。
14.一念をこめて誦(とな)うる御霊呪は 子々孫々(すえずえ)までの清めとぞ知れ
<解説>
大乗の行いを伴わせてこそ平生普段の祈りも深められ、御霊咒の効験や威大神力も増大されるのである。
15.最後なるみ教えこそは幾年も 探し求めし慈母と思わん
<解説>
涅槃のみ教えにふれた時、これこそ探し求めていた、わが母である-という確信をつかむことが出来る。それは修してしる喜びである。
16.他力より入りて自力と知れぞかし これぞ一如のまことなりけり
<解説>
一切お委せは一切お救け -とは、初信のあり方。
17.感謝なき信心こそは消ゆる灯と 思わばそそげ徳の油を
<解説>
信仰に喜びや感謝が持てなくなった時、それは徳のなくなった証拠であるから、真実の行いを貫いて徳の油をそそいでゆこう。
18.我がことは後になすとも他が為に なすはみ法の真理(みち)としるべし
<解説>
大般涅槃経・高貴徳王菩薩品に”他の為にし、のち自らの為になせ”と示されている。他の為にすることが、真如教えの本旨であることを知らなければならない。
19.他事(ひとごと)を即我が事と知るなれば 菩提の向上常にありなん
<解説>
霊言に-”尻切れトンボが遠くとべないように、他に幸いのあゆみを与える事も尻切れになってしまったら、悪因縁に勝ち抜くことはできないのですよ…”とあり、菩提の向上を接心は教示している。
20.我がうちに佛の性を見出しなば 我また尊く更にはげまむ
<解説>
人はみな、尊い宝を持ちながら”自から貧し”と思っている。大般涅槃のみ教え故、本当に尊い-と言っても”私などは駄目”と迷ったらどうであろうか-、灯明を持ち乍(なが)ら自らが目を閉じているのと同じである。
21.霊言に示さることば真理(みち)なれど 人間本位に聞かば間違う
<解説>
空-ということは、自からを空しうすることで、南無の境涯である。御霊言は道を示すものであるが、之を人間本能的に、都合のよいように聞いてゆくと、道をまちがえてしまうものである。
22.み教えにふれて心を飾れども 説かぬは法の錆と知るべし
<解説>
真如み教えにふれて、接心も頂き、わが心に深い真理というものが納得でき、教えの素晴らしさ、そして、その教えに結ばれた喜びもわかるが、若し他にそれを説かなかったら、やがて教えのサビとなって我が身を蝕まれてしまう。
23.罰ありと教ゆる道も道なれど 真の真理(みち)とは因果応報
<解説>
涅槃経に説くところの非真邪偽の法では罰をとくが、本当の教えは因果応報の理を説いて、その人の運命を改革するように導くものでなくてはならない。
24.智をわけて福徳荘厳あわせては 智慧荘厳と知るも尊し
涅槃経に説かるる二荘厳-即ち福徳荘厳は、歓喜の布施により智慧荘厳は、実践により身につくものといえる。
25.今蒔きて今日に収穫あらねども 努力重ねて稔り待つべし
<解説>
まずこの歌に示す真理が本当なものであるが、今蒔いて今日に収穫を得ている人も多々ある。そこが此の教えの不思議でもある。導き手(経親や導き親)の信用によって霊界から特に救いを下さったものもあるが、初信者の場合は、これが真物(ほんもの)と思ってはならない。
26.常住の佛の教え世の末の 末の末まで楽土示さん
<解説>
真如み教えは、久遠常住釈迦牟尼如来真伝の深法である。故に、今流行してのちに消える教えではない。子々孫々に伝え、末代かけて教えは弘まり、この世に楽土を顕現してゆくであろう。
27.徳という徳は特にと積めぞかし 積もりつもりて功徳とぞなる
<解説>
徳をつくることは大切なことであるが、一度にしようと思っても中々出来るものではない。常に心がけて信仰の徳をつむことが大切である。
28.世の中に道をば示す真理(みち)あれど 最後のみのり最上と知れ
<解説>
名字功徳品には-八大河悉く大海に帰すように、この経は一切の煩悩結(因縁のかたまり)や諸の魔も降して摂受する-と、その真意が説かれている。世尊五十年の説法の最後は即ち大般涅槃経である。
29.苑人の佛に仕えまつらんは まことこめての救いにぞある
<解説>
苑人が仏に仕えまつるということは、涅槃像に仕えるのではなく三宝一体の僧伽(そうぎゃ)に生きる”まこと”即ち一如のまごころを以て大衆に奉仕することである。
30.貴賤をも貧富もわけずまことをば 尽くし伝うが佛子なりけり
<解説>
世の人々は富貴の者をみれば競って媚び、へつらい、奉仕する。「貧しき者をみてはこれを捨て遠退く」という聖語があるが、この真意を知って、真如教徒は物によって差別することなく教徒の本分をつくすべきである。
31.善法に従わなきは心にぞ 邪楽しむ心宿るらむ
<解説>
涅槃の教えは有難い-とわかっていながらついてゆかれないことは、心の中になお仏より大切な欲楽というものを執持しているからである。

  • 最終更新:2012-01-03 12:09:15

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